人生エクソダスしてなにものからも自由になりたかった

遁世したい。でもできない中年男の独白。

向いてるとか向いてないとか、自信があるとか自信がないとか

 例えば体が細いのに力仕事をする、とか全く志向・適正と逆だと論外だが、本当に「天職」と呼べるものと出会える人間は残念ながら限られていると思う。

 例えば私の場合、接客なんて向いてないと思っていたし今でも思っているが、それでも接客を仕事にしている間、よほど悋気に触れないかぎり仕事を”こなす”ことはできたし、コミュニケーションをとる、とろうとすることも難渋することはなくなった。

 もちろん最初からうまく行ったことなど全然なく、むしろ仕事が終わるたびに悔しさがある場面の方が多かった。そこで「もう辞めよう」と100%思わなかったのは、一応そんなザマでも成長の実感があったからで、その”成長”というのは”想定していた範囲の結果が得られたという体験の積み重ね”である。

 無論その置かれた環境の人間関係が良好だったら、という前提がある。これが険悪な場合、手になじんだものであっても横やりを入れられたり、つまらないことを論われたり、最悪嫌がらせ・いじめにエスカレートする恐れもあるので、そんな環境だったら仕返ししようとか考えずにさっさと逃げ出すのが一番だろうと思う。

 話は戻るが、失敗ばかりだと自信を喪失していくが、そこでも成功・小成功、自分の尺度から見て”こんなものが成功なのか?”というものですら、進歩がミリでもあれば成長であり、そういう事実を砂金集めのように細かく集約していくことが、結果的に習熟や自信の構築につながっていくのだと思う。

 

 「自身がなくて一歩踏み出せない」というのは何も「今の自分の環境を捨てて新しい道を選べ」という話ではなく、休みの日にちょっと枠を作って集中した時間を設けてみて何かしら目的の作業に取り組んでみる、とかでもいいし、それこそ昨今の職場環境から副業を是認する風向きにはなっているので、仕事がリスケして空いた時間に何かしら目的の作業に取り組んでみる、とかでもいいと思う。

 いきなり全部環境を変えてしまうのではなく、自分の生活の一部に段階的に取り込んでみて、本当に向かないと思ったら止めてしまえばいい。そこで高額な教材や道具を買ってしまったらうまく行かなかったときに取返しがつかないし、成功させなければいけないという強迫観念は自分を追い詰めてしまう。そこまでしなくていい。

 

 ここで言う”向かない”というのは「ちょっとやってみようかな、でも失敗したくないな」という感情のことであり、(「こんなん厭やわ」と作業効率ガタガタだったら切り上げてしまうのが良いと思うが、)「うまくいったりいかなかったりする、やっぱり向いてないのでは」という感情なら、作業に慣れてくる→失敗が減る→自信が持てるようになる→ちょっと遊び心とか効率化を差しはさんでみよう、と心の中でサイクルが出来てくれば、失敗しても落ち込むより”どうすれば上手く行くか”に頭が働くようになってくるので、そこまでいけば自信が削れることはなくなっているのではなかろうか、と思う。

 そして、人間は例外的な部分はあっても心変わりする生き物である。放り出してやっぱり止めよう、と思ったことでももう一回やってみようかな、と思うこともある。これが曲者だが、本当に止めておくべきことがある一方、以前触った頃よりなんとなく出来る部分が増えて手ごたえを感じることがある。

 また、以前触ってすぐ止めた時には漫然と挑んでいたが、現在状況が変わって本腰を入れて取り組めばリターンが望める、という状況になればモチベーション自体も当時と変わってくる。

 

 まあ心の底から面倒くさかったらどうにもならないが、ちょっとでも興味があることに自信がないということで手をつけないのはもったいない。まして今の時代は思わぬところからマネタイズの可能性があるネットの時代であるがゆえに、普通に生きていたら気づかなかった適性が自分の中に隠れているかもしれない。

 とはいえ大前提として、それが自分や周囲の人間を金銭的・社会的に破滅させたり、公共の秩序を脅かしたり、他人を傷つけるものであってはならない、という配慮があることが条件だが。

 大事なのは試しにやってみようという軽い気持ちであり、思い切って全賭けするのではなく無料でできる範囲から始めることである。

 

 私の価値は私が思っているほど客観的には価値がないのかもしれないが、無価値でないことを信じている。

 ここまで読んでくれた人も、自分の価値を信じて、とりあえずの取っ掛かりを触ってみてほしい。